JAPAN GEOGRAPHIC

岐阜県中津川市 馬籠宿

Magomejuku,Nakatsugawa city,Gifu

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 General
 
砦の機能も備えた宿場
 Nature
 
宿場から中津川方面の遠望が素晴らしい
 Water
 
 
 Flower
 
 
 Culture
 
 
 Facility
 
 
 Food
 


Nov.2020 柚原君子

中山道第43 馬籠宿


概要:
馬籠宿は長野県馬籠峠と岐阜県十国峠に挟まれた位置にあり、風の吹上げが強い上に水の理にも乏しいことから大火では手が付けられず,明治と大正に二度の大火がおきて主要な家々は焼け落ち石畳のみが残ったといわれています。また宿の前後の街道が尾根を通っていることもあり宿内はもとより入るも抜けるも坂道,石段の勾配が強く続きます。
勾配は急ではありますが妻籠方面から馬籠峠までを1とするとその3倍くらいの長さの上り坂(下り坂)が落合宿側から馬籠峠まで続くことになります。

江戸から京に向かい,森林の多い谷底のような宿の続く木曽山中を抜けて馬籠宿に至ると明るく続く広い空に改めて驚かされ、木曽谷を抜けたことがわかります。
馬籠宿は木曽11宿の中では美濃国に一番近い位置にあって長野県西筑摩軍神坂村という場所でしたが、その後市町村合併で神坂村は二分されて生活文化圏が中津川寄りにあった馬籠宿が岐阜県に行くという、かつてない行政を跨いだ合併争いという経緯があり、現在は木曽11宿のなかで馬籠宿だけが岐阜県中津川市となっています。
また、フランスのミシュランタイヤが発行する世界的に有名なミシュラングリーンガイドブックでは、前宿の妻籠と共に一つ星を獲得し、世界的な観光地のひとつとして認識され、宿内には英語の案内も多くありすれ違う外国の人々も他宿より目立ちます。

古代の東山道時代の馬籠宿近辺は神坂(みさか)と日本書紀にも記され縄文文化遺跡の痕跡もみとめられています。
ウキィペディアによると『鎌倉時代に成立した『吾妻鏡』の中では、木曾義仲の妹の宮菊姫は北条政子の養女となり「美濃国遠山荘の一村」を与えられたと記され、これが馬籠とされて宮菊姫にまつわる伝承や墓が馬籠に伝わっている。戦国時代が過ぎた後に木曽家は豊臣秀吉側に付き、馬籠城に島崎重通(島崎藤村の祖先にあたる)を入城させたが、徳川家康方の菅沼定利・保科正直・諏訪頼忠の連合軍が現在の馬籠宿の北に陣を張って馬籠城を攻める事を知った島崎重通は、山村良勝の守る妻籠城に逃げ、そこで徳川勢を撃退した。馬籠城はそのまま放置されて馬籠一帯は戦火から逃れた』とあり、そのような経緯から、馬籠宿に島崎家子孫が定着して,その子孫の一人である島崎藤村が小説を発表したことにより、藤村一色といっても良いほどの色合いをもった馬籠宿になっています。

天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、宿内家数は69軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠18軒。宿内人口は717人です。



1、庚申塔~大妻籠バス停~馬籠峠


今回は妻籠~馬籠~落合宿の医王寺までが予定で昨夜は妻籠の民宿『こうしんづか』さんに宿泊。今日は,そこからの出発です。
大妻籠のバス停より馬籠峠までバスを利用します。昨日歩きすぎて足が痛いのと、今日の予定で落合宿の医王寺までの距離を考えると(夕刻には中津川駅より帰京したい)、ここから馬籠峠まで私の足では二時間を要する登山道となり時間内に中津川駅に行き着ける自信がありません。残念ですが,バスを利用して馬籠峠まで行きます。

バスが来るより少し前に民宿を出て庚申塔馬頭観音へ。また、歩いて行くとすればこの山道を登っていくはず……と山の奥に続く石畳みの道を少し登って、雰囲気だけを感じて、そして時間どおりにやってきたバスに乗りました。
バスは公道をつづら折れに登っていきます。

◆男滝・女滝がありますが、残念ながらバスの中よりこの辺りかと見ただけ。

◆一石栃白木改番所跡(木曽五木の出荷や伐採禁止木の改めなどが行われた場所)

◆牧野家住宅(一石立場茶屋跡)、往時は7軒くらいの茶屋があったそうですが、現在は1軒のみ,お茶の接待があるそうです……などはバスで通過のために見ることは出来ませんでした。妻籠からはかなり急な登山道が続いていると言うことですがバス便ではあっという間に馬籠峠に到着します。

                      

2、熊野神社~旅籠桔梗屋~今井家住宅


標高790メートルの馬籠峠バス停に降りて,ほんとうなら登山をしてくるはずだった道を見下ろすとかなりの急勾配……やっぱり歩くのは無理だった、と納得。
バス停前の峠の茶屋は朽ち果てています。長野県と岐阜県の行政県境でもあり,ここからの現在の中山道案内標識は岐阜県中津川が作ったことになります。少し違いがあっておもしろいです。
バスの行った方向に歩き、しばらくして右脇道に下って行くと,あふれんばかりに紅葉のトンネル。左手に熊野神社。この辺りは旧峠村と言い、牛方衆(木曽地方での呼び名は岡船)と呼ばれる長距離の荷物を運ぶ仕事の人がたくさん住んでいた場所。山の尾根にから谷底のような地まで起伏の多い道を牛の背に荷物を乗せて遠くの善光寺やまた名古屋方面まで運んだといいます。島崎藤村の「夜明け前」の中にもこの牛方衆が中津川の商人を相手にストライキを行った様子が描かれているそうです。

馬籠宿の大きな案内。着いたのかな?と思いましたが,実はまだまだこれから何度も坂を登ったり下ったりしなければなりません。
左側に旅籠の桔梗屋さん。石畳みを残して全て焼けてしまった馬籠宿ですから,昔の図に基づいての再建築ですがなんと広い間口。見上げながら過ぎるとお隣は今井家住宅。中津川市景観重要建造物指定の家。牛方衆の組頭である今井仁兵衛住居跡です。この方も島崎藤村の「夜明け前」の組頭のモデルになった方。道はゆっくりとした下り。ネコを見ながら,干し柿を見ながら下って行きます。

                                                   


3、峠之御頭領徳碑~梨の木坂

左側に「峠之御頭領徳碑」があります。領徳碑は偉業を顕彰するもの。『峠』とはこの辺りの旧地名で、御頭というのは先ほどの今井家住宅の牛方衆の組頭である今井仁兵衛氏のことです。
1856(安政3)年、中津川の問屋賃金の上前はねを巡って論争がおき、牛方衆は運搬拒否のストライキを15日間行い、牛方衆が勝利します。この時の牛行司(御頭)が今井仁兵衛でその働きを称えた碑と説明版にあります。この辺りはま「間の宿」でもあったようです。

自然石の中山道道標の右側の道を行くと十返舎一九の碑『渋皮のむけし女は見えねども栗のこわめしここの名物』とあります。木曽道中膝栗毛を書いた十返舎一九。粋な女は馬籠宿にはいないと詠んだ狂歌ですが、本当かなぁ、と思います。『の』が昔の『之』で昔の石にしては判読可能な狂歌ですが、下にある熊手のような模様は女性の簪(かんざし)でしょうか。
国道を数回横切り紅葉が時折の風で舞う中を梨の木坂の石畳に出ました。浅い山に見えます。

                                    



4水車塚~陣馬坂


馬籠宿の案内図を見たのが11時ころ。あれから45分歩いているのにまだ宿が見えません。それどころかまたしても山の中に入る前方の雰囲気です。水車小屋が見えてきました。水車小屋と休憩舎。その隣に水車塚の碑。1904(明治37)年、この地を土石流がおそい家屋流失。一家4人が死亡。島崎藤村と縁のあった者が藤村に碑文を依頼して水車塚ができたそうです。
石畳みや土の道を繰り返し,木橋を渡ったりしながら山道をさらに行きます。県道を横切って案内にそって左にある石段を登ります。10分ほど登っていくと視界が開けて恵那山が目の前に。今度は幅の広い石段を降りていきます。陣馬坂です。私たちは妻籠方面から来たので下りですが、落合宿、馬籠宿から妻籠宿に行く人はこの延々と続く上り坂が辛いそうで、すれ違う人の息が上がっているのが解ります。

                                            



5馬籠上陣馬跡


前方に見えている見晴台は馬籠上陣馬跡(まごめかみじんばあと)。ここは1584(天正12)年、徳川家康と豊臣秀吉が戦った小牧・長久手の戦いのときに、徳川方の武将である菅沼・保科・諏訪氏の軍が馬籠城を攻めるために陣をとった場所。
前方に2191メートルの恵那山が望まれて,素晴らしく眺めの良い展望台です。立っている碑は島崎藤村の父が神坂を称えた長唄と反歌を刻したもの。

恵那山を正面にして左に京都、右に東京、背後には諏訪湖、小諸があるという絶景です。しばし景色を楽しんだ後、急な石畳みを降りて行くといよいよ馬籠宿。
高札場に来るまでに馬籠峠のバスを降りてから2時間が経過しています。もしも大妻籠から歩いてきたとしたら,ゆうに4時間かかったところ。やはり妻籠から馬籠まで通して歩くのは大変なことだと。昔人はえらいと改めて思います。

                    



6高札場から脇本陣、本陣


高札場です。どんどん降りて行く坂道の上。背の高い立派な復原高札です。国道を横切って石畳を下って行きます。前方に恵那山が開けて見えます。中井筒屋さんで昼食。窓いっぱいに干された赤唐辛子がまぶしいです。
右側に脇本陣。蜂谷家。屋号は八幡屋で生業は酒造業や金融業。当然,宿場の要職にあり年寄り役なども務めています。
1階13室、2階3室で合計16室もある脇本陣でしたが大火により焼失。現在は資料館となり再現された上段の間が残されているとのこと。
『木曾路はすべて山の中である』ではじまる有名な島崎藤村の『夜明け前』は贄川宿からから馬籠宿までを舞台にしている歴史にも残る小説です。内容は島崎藤村の父島崎正樹(半蔵)が歴史の波に呑まれて翻弄されてもがき苦しみ、最後は座敷牢で気が狂って死んでしまうという、島崎藤村の実家が木曽の森林の推移のなかで没落していく壮絶な物語です。

執筆に際し、その資料として蜂谷家初代から4代に渡る約100年間の覚え書き『蜂谷源重郎覚え書き(八幡屋覚え書き)』と『大黒屋日記(年間諸事日記帳)』(41年間の日記帳)が下地になっているといわれています。蜂谷家は「夜明け前」の文中では「枡田家」として表されています。

脇本陣の隣は大黒屋。馬籠一番の地主で造り酒屋。大黒屋日記を書いた当主。大脇兵衛門信興氏(明治3年没)。「夜明け前」の作中では伏見屋となっています。

そして、藤村記念館となっている本陣。問屋と庄屋を兼ねた家で藤村は最後の当主となった正樹(夜明け前の主人公)の末っ子で9歳までこの家で過ごしています。故谷口吉郎博士の設計の寺院回廊建築様式で県指定史跡。本陣の大半は大火で焼失したものの隠居所と屋敷の礎石、石垣などは残っています。現在は県が寄贈を受けて藤村記念館として運営。藤村の全ての直筆原稿がありその他に明治大正期の文学・句コレクションなど6000点あまりが所蔵されています。

石の坂道をまた下ります。右に永昌寺の案内。藤村の菩提寺です。
見上げると干し柿がきれいに並べられた間口の広いのは但馬屋さん。民宿です。

                                                       



7清水屋~水車と枡形

向かい側に清水屋資料館。原家。藤村は馬籠で帰農する長男の楠雄を託した家でしたので、藤村に関する直筆文書の書簡が多くあります。そのほかに掛軸や宿場時代の生活文化遺品などが展示されています。また島崎藤村の作品「嵐」では「森さん」こと原一平の家でもあります。
馬籠宿は坂を下っていく道に家々ですので,下り側に石垣が積まれて家は平行に保たれています。石垣を手で触りながら一軒一軒降りていく感じです。右側に水車と灯籠と曲がった道。乗馬して入ってくる馬の速度をおさえて対応できるように作った「桝型」です。この下り坂で明治13年に明治天皇の行幸に随行した岩倉具視の人力車が,止まりきれずに家に突っ込んでしまったという話が残っているほどに,直角で急な下りです。
ここにある水車は発電の設備がされていて水車小屋のライトアップ、常夜灯の灯りの電力を供給しています。この枡形の坂道は和宮の行列も苦労したのでしょうね。ちなみに馬籠宿の道幅は和宮行列の為に広げられています。
水車小屋を過ぎて阿弥陀堂の辺りで下りばかり続いた馬籠宿はほぼ終了。これから国道を横切って畑の中の道を落合宿に向けて進んでいきます。

国道を横切った際にふとマンホールの蓋が目に付きました。旧山口村の「YAMAGUCHI」というローマ字が入っています。珍しい感じがします。浄化槽の蓋で、村の木・ツバキと村の花・ムラサキツツジが描かれて、中央に「YAMAGUCHI」の文字。
旧山口村は元は長野県木曽郡でしたが県を越えた合併があり、平成17年に中津川市に合併されています。「YAMAGUCHI」と残っているところが何だかいじらしいです。

                                    



8,馬籠城址~木曽路の終り~新茶屋の一里塚


横屋のバス停、丸山坂とゆるやかな登りです。周囲は明るく開けて田園風景が続きます。丸山坂は馬籠城を丸山城といった名残り。馬籠城は砦のようなものですが今は城址の説明看板があるのみです。
馬籠城は1584(天正12)年、木曽義昌方の藤村の祖である島崎重通が守備していましたが、過ぎてきた山の上にあった上陣馬に布陣していた徳川勢の大軍を前に城を捨てて逃げ出して妻籠城に撤退しています。
庚申塔や石仏,村の鎮守である諏訪神社を見ながら進みます。落合宿まであと3キロ半。鍛冶屋前のバス停を過ぎると道はさらに開けて正岡子規の句が見えてきます。この辺りは信州サンセット百選の一つ。夕焼けのある方向に句碑があります「桑の実に木曽路出づれば穂麦かな」
しばらく歩いて新茶屋跡と一里塚。茶屋はここより少し落合宿側にあったそうですが、江戸時代の終わり頃にはこちらの信濃の国の側に。それで新茶屋という名称になっていますまた『是より北 木曽路』の石碑。藤村直筆。贄川宿には「是より南 木曽路」とありますので、木曽路の始まりから終わりまで歩いたことになります。芭蕉の句碑「送られて送りつ果ては木曽の穐(秋)」もあります。そして、信濃の国と美濃の国の境を表す石碑。新茶屋の一里塚は両塚があり榎と松が植えてあるそうですが,うっそうとしてどれがどの木か解りませんでした。道はさらに山の中に入り落合宿へと続いていきます。

                                    

 


Mar.14,2017 瀧山幸伸

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source movie

落合方面(坂下)から馬籠峠(坂上)へ

                                                                                                                                                                

馬籠峠へ

            


Apr.22,2015 川村由幸

                                         


June 2005 瀧山幸伸

Map馬籠峠

Map馬籠

中山道 大妻籠から馬籠 ドライブ

Nakasendo Otsumago to Magome drive

June 2005  HD quality(1280x720): supplied upon request.

馬籠峠

June 2005  source movie : supplied upon request.

馬籠宿

Magome post town

 

休日の夕方

July 2004  HD(1280x720)

休日の昼

Sep. 2003 source movie

休日の早朝

Aug. 2003 source movie

【街並】

馬籠は山中に位置している水と緑を意識した眺望の良い宿場町だ。緩やかな坂に沿った街並は一歩進む毎に微妙にその姿を変える。島崎藤村ゆかりの宿場でもある。

  

【時間による街並比較 上流部】 

下はどちらも秋の休日、宿場中心部の本陣から少し上流ほぼ同じ地点での景観だが、左の早朝と右の日中とでは街並の印象が大きく異なる。朝は人影がまばらで店も閉まっているため街並がよくわかる。道路の微妙な曲がり具合、舗装や植栽や建物の素材感、ストリートファニチャ、道路と建物の均整感などが理解できる。日中は観光客と商店でにぎやかだが、快晴時には光線の関係で片方の街並はシルエットになってしまう。

早朝の街並
日中の街並
   
   

 馬籠の街並は美しい。景観的によく管理された街並だ。さらに欲を出して改善すべきは、茶屋の大きすぎる看板、店先の幟(のぼり)、屋根の意匠と素材などであろう。この写真付近では建物が街路にせり出さず、松、萩など都会にはあまり見られず和風を演出する植栽が景観を形成している。

所々に洋風ガーデニングの草花が混じるのが残念だ。それらがブーゲンビレアやハイビスカスであれば誰もが違和感を持つだろうが、そこまで極端でなくても、都市に似合う洋風の草花、どこでも見かける草花は避けてほしい。訪問者にとって、都会を逃れてはるばる訪れた地にも普段と同じ花があるのでは興ざめだ。

花は街並演出の絶好の材料だ。例えばカナダのバンフやビクトリア、インターラーケンなどスイスとオーストリアのほとんどの都市には、各建物の花台をはじめ街路灯など町の随所に花がある。手入れの行き届いた「花の町」は美しい。小布施には少しだが花を吊り下げた街路灯を見かける。洋風の街路灯なので少々違和感があるが、数基の街路灯が街の印象を大きく変える。

石畳は2種類のデザインパターンで構成されている。内側の石畳のエッジが微妙な曲線であり、美しいシーケンスとなって街並を和らげている。

腰掛ける場所が少ないのはつらい。日本のどこでも言える事だが、長時間腰を下ろして街並だけを楽しめる所は少ない。

馬籠では宿場内の街道筋は歩行者専用となっており車は入れない。道路脇の水路の水音とあいまって心理的に大きな安らぎを感じる。騒音を気にせずのんびり過ごせる街は日本には少ない。それぞれの街で、水の音、鳥の声、清浄な空気を掻き消す通過交通や業務用車両、産業騒音、空調騒音などをアセスメントする必要がある。物売りの車や選挙演説、時代遅れの観光地で流れるラジオ歌謡曲のスピーカーなども規制が緩すぎると思われる。

【時間による街並比較 枡形付近】 

この付近から建物の屋根越しに見える中津川方面の雄大な景観が素晴らしい。枡形は敵の攻撃を防御するため。馬籠はそのロケーションから砦としての機能も併せ持っていた。

早朝の街並
日中の街並
   

【本陣付近】

  

 

  

  

  

  

  

  

 

【枡形付近】 

  

  

  

【宿場最下部】 左側農協の売店は他の農協店舗と変わらない。JAの看板は街の第一印象に影響するし、大いに改善の余地があろう。道路標識を撤去し、車止めなどを設ければさらに美しい街並になるであろう。

 

【水の演出】

道路端には水路が流れる。清冽で勢いあふれる水しぶきと水車が軽快なサウンドスケープを演出する。水車の回転は景観に動きを与え、水しぶきが日光に反射し美しい。水路と水は美しい街並の重要な要素である。枡形の水車は実際に粉引きの歯車が回っている。日本全国いたる所に枯れた水路や動かない水車を見かけるが、街並の美しさは眼でのみ感じるものではなく、五感と過去の記憶、そして想像で感じるものだ。ましてや静止画では扱えない。人間の眼は写真機ではないので動画で時間の変化を認識できる。調査記録をビデオで保存する理由はそこにある。音と映像の調和を分析することができ、1秒間に30コマの写真に分解してシーケンス(街並などの連続する景観)や緑覆率、道路対建物高さ比率、スカイライン、瞬間の騒音などを分析することもできる。

 

  

 

【アイ・スポットとなる景観要素と演出】

馬籠の街並は良くデザインされ、維持管理されている。例えば以下のような事例だ。 

・ストリートファニチャが美しい。新しいところでは防火用水、古いものでは道祖神などが美しい。デザインを考慮しない看板やストリートファニチャが街並を台無しにしている事例が多い中、このように公共のストリートファニチャまでデザインし管理するこだわりはすばらしい。

・和風の演出。藤村初恋の人の実家だった大黒屋を例に見てみよう。棟のデザイン、屋根がついた杉玉、簾、家紋のデザイン、障子戸、床机、灯明台、鉤曲りの石畳、砂利敷きなど、細部の意匠による和風演出へのこだわりが気品に満ちた印象を創出している。

・格子の美しさ。例えば清水屋資料館。格子は不思議なスクリーンだ。外部から内部を覗き込むことは難しい。外部から見る格子の繊細さはもちろんのこと、内部から格子越しに見る風景の、モダンでデジタルな印象は格別である。格子の特殊フィルタ効果なのであろうか、縦縞で引き立ち、写真アートやモダンアートのような先鋭で不思議な風景が現れる。昔の人の感性とデザインセンスに驚く。

・軒下の朝顔。朝顔は白壁にも黒塗りの板壁にも調和し、手軽に和風を演出することができる江戸を象徴する花だ。

・中山道宿場のフィーチャリング。例えば但馬屋。荷車と看板と暖簾がかつての中山道の旅情を演出する。中山道の道標と石畳、宿場の峠側入り口ある高札場も同様だ。都市の街角にある行政掲示板もこのような意匠を考えてほしい。江戸時代のほうがよほどデザインセンスが高いように感じる。馬籠峠の句碑も街道にふさわしい。

・馬籠から馬籠峠への途中にある水車小屋。屋根の形状まで含め復元の効果が考えられている。

  

  

  

 

  

 

馬籠のまとめ アセスメント 合計 20点

周辺の自然と景観 +2

石畳 +2

歩行者専用道路+2

電柱なし +2

宿場町の街並と建築物 +3

看板のデザイン +1

公共設備(消火栓)などのストリートファニチャ +1

植栽 +1

水路、水車 +2

中山道フィーチャリング+2

島崎藤村フィーチャリング +2

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